仏性、聞いたこともない、という方がほとんどだと思います。もちろん私もまったく知りませんでした。ウィキペディアによると、
仏性(ぶっしょう、梵: Buddha-dhātu)とは、衆生が持つ仏としての本質、仏になるための原因のこと。主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である。覚性(かくしょう)とも訳される。仏教では、この仏性を開発(かいほつ)し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。
わかりませんね~💦
一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という言葉があるのですが、「ブリタニカ国際大百科辞典の解説」によると、
生きとし生けるものは,すべて仏陀になる可能性 (仏性) をもっており,すべて悟りうるという仏教の思想。諸説もあって,なかには仏性をもたないものもありうるとする説 (法相宗) ,草木などの精神性をもたないものにまで仏性があるとする説 (天台宗) ,精神性をもたないものは仏性をもたないとする説 (華厳宗) などがある。大乗仏教の『涅槃経』にみえる句。
と、あります。要するに、「一切の衆生に、ことごとく仏性あり=すべて生あるものは、ことごとく仏となる可能性を有している。」ということのようです。また一般的には、「仏のように情け深い性質。慈悲深い生まれつき。」と解釈していたりします。
この仏性論、4世紀くらいにできた涅槃経というお経の中に出てくるんですが、仏教の革命的な考え方だったそうです。仏はどこにいるか→お墓でもない、お寺でもない、自分の心の中にいる、という考え方なんだそうです。
でも、この思想が生まれて700年後の道元禅師は、これに異を唱えます。まず「悉有仏性」をどう解釈しているか。
ここからは村山先生に教わった内容です。
「悉有(しつう)」という世界がある。それは、「ことごとくある。いつでもどこにでもあるもの。」言葉を変えると、「宇宙中充満しているものがある」という世界。で、その充満しているものこそが「仏性」である、と。
「仏性」ということは、「仏の性質」とも読めます。仏の性質、ということは、当然、善意しかないですよね。だから、「この宇宙は善意で満ち溢れている。あらゆるものを幸せにしようという心しかない。」ということになります。
次に「一切衆生」。
道元禅師は、これを一切(いっさい)とは読みません。一切れ(ひときれ)と読みました。その一切れを、衆生という。
だから「一切衆生悉有仏性」とは
宇宙に善意が満ち満ちている。その一切れを取ったものが、人間の心なんだ、
ということになるそうです。
この道元禅師の解釈を、村山先生は絶賛されていました。
NHKの「100分で名著」という番組のホームページの、名著59に、道元「正法眼蔵」の回があります。興味がある方は、探してみてくださいね。
蛇足ですが、その第4回「全ての行為が修行である」の中に、
普通は悟りを得るための手段として修行をすると考えられているが、道元はそうは考えない。修行そのものの中に悟りがあり、悟りの中に修行があるとみるのである。この立場に立てば、行(歩き)・住(止まり)・坐(坐り)・臥(臥す)といった生活の一挙手一投足が修行となり、その只中にこそ悟りがあると道元はいう。
と書いてあります。お釈迦様が、苦行ではさとりはひらけない、と仰ったことにつながるなぁと思いました。
続く!