戦略と戦術

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今日から「令和」ですね!月盤も八白中宮になる5月に「令和」に切り替わるという、その初日に、令和とはまったく関係のない話を書こうとしております😁

GW中、珍しく昼間にテレビを見ていたら、「知恵泉」が再放送されていました。内容は、「頼朝と義経」。見るともなく見ていたら、なんと、戦略と戦術の話だったんです。

あっ、そういえば戦略と戦術、ほったらかしだったー!と、腰を据えて見ることに。

頼朝と義経といえば、素晴らしい戦果をあげた弟・義経が、兄・頼朝に追われ、奥州で非業の死を遂げる、という悲劇として語られています。非情な兄と可哀想な弟、というイメージが一般的ではないでしょうか。いやいや、ただの私の勉強不足ですかね💦

しかし、実際は違ったそうです。

まず、一の谷の戦いの勝利。鵯越の逆落としで戦いに勝ち、その後、後白河法皇から与えられた検非違使の官職を受けます。

次に、屋島の戦い。ここでも義経は、あっという間に源氏に勝利をもたらします。那須与一の扇の話が有名ですね。

そして最後の決戦、壇ノ浦の戦い。最初は苦戦したものの、源氏の勝利。清盛の妻・時子と幼い安徳天皇が海に身を投げる、という悲劇的な結末となります。

学生の頃、歴史にまったく興味がなかった私は、「こんなに活躍したのに兄に討たれるなんて、嫉妬かな?」と考えていました😅 でも、「判官贔屓」という言葉もあるくらいですから、そう考えた人が多かったんでしょうね。

ここから「知恵泉」で学んだことです。

まず一ノ谷の戦い。ここで義経は検非違使の官職を喜んで受けますが、頼朝からしてみたら、武家政権を築く構想があるのに、自分の弟が何の相談もなく朝廷から官職を受けてしまっては示しが付きません。激怒!なわけです。

次に屋島の戦い。ここでは、頼朝は義経に、「ゆっくり攻めろ」と司令を出していたそうです。なぜかというと、家臣に恩賞を取らせるためには領地が必要で、ゆっくり攻めることによって平家に加担してくる武将を討ち取って、家臣に与える土地を増やそうと考えていたそうなんです。ところが!義経は頼朝の命令を守らず、あっさり勝ってしまったわけです。また頼朝、激怒!ですよね。

そして最後の壇ノ浦の戦い。この時、頼朝は「三種の神器を確保すること」を至上命令としていたそうです。それは、三種の神器を手に入れることで、朝廷との交渉を優位に進めるためだったとのこと。なのに!義経は命令を無視し、三種の神器は海の底に沈み、剣は結局見つけられずに失ってしまいました。しかも安徳天皇の命も失ってしまったわけです。それは当然、激怒!でしょう。

梶原景時が告げ口をしたことが仲違いの原因、とも言われていますが、梶原景時の告げ口というのは、「義経は独断専行で手柄を独り占めし、自分だけの武功と思っていて、軍の規律が守れない」というものだったそうです。村山気学を学んだ方ならおわかりですよね。「俺がやった!」というのは絶対ダメなんです。

これ、義経は戦術に長けていたから戦に勝てたけど、戦略を描けなかったから頼朝の真意が理解できなかった、ということなんですね。そして、その原因として知恵泉では、頼朝は小さい頃から京の都にいて朝廷の人間模様をみてきたけど、義経は鞍馬山にこもっていたため人の気持ちを察することができなかった、ということを上げていました。確かに、そうかもなぁ。

歴史は時代によって解釈が変わるものだから、どこまで本当のことかわかりませんが、非常に勉強になりました。やはり、歴史に学ぶ、過去に学ぶということは大切ですね。

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