展望と開運

そろそろ年末が近づいてきましたね。

年末といえば、「展望と開運」!

社会運勢学をご存知ない方はピンとこないと思いますが、毎年年末に、次の年をどう過ごしたらいいのか、というセミナーがあるんです。セミナーの前には、「展望と開運」という書籍が発売されます。すでに店頭に並んでいますので、ぜひ、手に取ってみてくださいね!681F9E29-AFCC-4490-882F-A4CDBDBFABBF

我らが師匠、村山先生といえば、「展望と開運」!

今年は勉強が大事な年なので、私も自分で一から「展望」を書いてみることにしました。初の試み、一体どんな内容になるのやら…ドキドキ😅コアイメージだけ、ここでお伝えしようと思います。

来年は、己・亥・八白という年。それぞれ意味があるのですが、八白について。八白の象意は、止まる・改革・蓄める・親族 など。止まる、という現象が起きることから、あまりいいイメージを持てない方が多いように思います。でも、どんな星にも吉の意味と凶の意味があるんです。だったら、なるべく吉の意味を取りたいですよね。それには、個人個人が吉として受け取ることがとても大事。

八白の象意は止める。なら、自分中心の心を止めたい。

今、世界は、自己中心の考え方が蔓延しています。でも、八白を吉で受け取れる人が増えたら、きっとそれが世界を動かすはずだと思うんです。先生は、国民のレベル以上の政治家は出てこないと仰いました。だったら、私たち大衆が変わるしかない。この一年で、どう変わったらいいのか⁉︎

こんな考え方で書いていこうと思っています。

「聞いてみたい」と思っていただける方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡下さい!

1月28日 13:30〜17:30 ¥6000  九段下にて展望セミナーを行います。ご要望がありましたら、他日でも開催させていただきます。

「えー、私個人のことが知りたい!」という方には、個人セミナーも¥10000にて受け付けております。

というわけで、今回は宣伝でしたー😅 どうぞよろしくお願い致します!

世の中のためって?9

前回、井筒俊彦さんの「意識の形而上学」を読んだところで終わりましたが、この本、目次を見ただけで本を閉じたくなります・・・。が!頑張って読みましたよー!

この本は、「大乗起信論」という経典について書かれています。大変難しい本ではありますが、私なりに解釈してみました。まず、難しい用語を、自分の知っている単語に置き換えてみます。

◆真如・無・空・形而上≒仏性

◆無明(妄念)・形而下=今、現在、人間が認識している世界(顕在意識)

◆意味分節体・存在分節体=人間個人・石・木・草など、この世界に存在する「もの」

書いていて頭痛がしてきました💦  本を読んでいないと、さっぱりちんぷんかんぷんだと思いますが、要するに、

「今、現在、人間が認識している世界」は、仏性が分かれて出来上がっている世界だということ。

この世に存在するもの(生命があろうとなかろうとすべてのもの)は、すべて仏性でできている、ということ。

を、論じているのです。・・・と思います💦

これ、道元禅師の話と共通してますよね?道元禅師は「一切衆生悉有仏性」を、「人間というのは、仏性の一切れである」と仰っています。

村山先生は、道元禅師のいう「仏性」と、ユングのいう「集合的無意識」が同じものである、と教えてくださいました。実際、仏教の言葉で、末那識・阿頼耶識という言葉があるのですが、

末那識(まなしき)=フロイトのいう無意識

阿頼耶識(あらやしき)=ユングのいう集合的無意識

と、捉えられているのです。(・・・若干、微妙ですが。)

これ、すごいと思いませんか?お釈迦様は2500年前の方ですよ。この時、すでにこういう考えを説いていた、ということになりますよね。道元禅師、今から約800年前の方です。この時にユングと同じ考えを書き残しているわけです。もっと言えば、お釈迦様の前にも、同じような考えがあったわけです。いかに東洋思想が素晴らしいか!

そして、村山先生は、

「人間は、もともとの持っている心に、自分も幸せになり、人をも幸せにする、絶対の心を持っている。一切れ持っている。この一切れを、どこまで拡大させるかが、人間の最も大事な所。」

これが道元禅師の主張だと仰います。

さらに、

「自分の心の中に寝ている、自分を幸せにする心、それをどうやって自分の顕在意識に持ち上げて、自分の中で、アイディアとして持ち上げられるか。他からこの人を救おう、なんて、絶対できやしない。全部、自分の問題は自分で解決できるだけのものを自分で持っている。もっと言うと、解決できる問題以外はない。だから、自分の周りにある、自分の生活に起きている悩みから、逃げてはいけない。悩みをごまかしてはいけない。絶対解決できる問題しかないから。逃げるな、ごまかすな。全部自分で解決できる。」

これが村山先生の基本的な人生観だとおっしゃいました。この人生観は、道元禅師の仏性論を学んだ時から持った人生観だそうです。

もう、しびれますよね。これこそ、道元禅師のいう「修行」だと思うんです。

そして、

この一切れを、どこまで拡大させるか

ですよ。「一切れ」って、いったい何だ、ということです。

仏教が第一の目的とするところは何か。それは、「さとり」をひらくこと、でした。では、「さとり」を開くとは?

自分の潜在意識の奥の奥の深層までいくと、すべては繋がっていると理解すること。

これが「さとり」の第一歩だと、私は考えています。これが正しいのかどうかすら、わかりません。なにしろ、仏陀はお釈迦様ただ一人なんですから・・・。でも、仏教の経典は、2500年かけて、ずっとこのことを伝え続けています。そして、「哲学」という学問も、このことをずっと論じているのだと思います。

もちろん村山先生も、このことを私達に伝えようと、様々なお話をしてくださっていました。私はそれに気づくのに、何年もかかりましたけど・・・。

2019年版「展望と開運」の「はじめに」にも、このことが書かれています。村山先生の想いが伝わってきます。

この「一切れ」というのは、すべてが繋がっている大生命(仏性)から分かれた「一切れ」=人間のことでもあります。要するに、「私」は、宇宙の大生命の「一切れ」である、ということ。だとしたら、「私」というのは、自分自身と思っているこの私はもちろんのこと、家族も、会社の同僚も、地域の人すべても、地球上すべての人も、「私」と捉えることができるわけです。

だからこそ、「自分自身と思っている私」が自分を整え、幸せになっていったら、すべての生命に、地球自体に、影響を与えうる、ということだと思うんです。自分自身と思っているこのちっさな「私」をどこまで変化させることができるか。だからこそ、「どこまで拡大させるか」、なんだと思っています。

これ、気学の考え方もまったく同じだと思うんです。

気学は、「九星気学風水」といって、地球上のすべてのものを9つに分類して、九星としています。ということは、大きな「一切れ」が9つある、ということですよね。そして、「世の中のためって?1~3」で書いた、「内気と外気」の話、あれも、「私」が大きくは宇宙にまで影響を及ぼす、という話でした。気学・易は、「太極」からすべてが分かれ出た、と説いています。そして、その分かれ出たものの特徴・分かれ出たもの同士の関わり方・物事の考え方・行動指針を教えてくれています。私はこれを、「地球のルール」だと考えています。気学・易は、5000年以上前にできたものなんですよ。仏教より2500年以上前から、「地球のルール」を説いているんです。すごいですよね!

九星気学風水・易・仏教を学んで「私」を幸せにしていくことが、世の中のためになると信じています。これが正しいかどうかを検証するには・・・実践あるのみ!

世の中のためって?8

前回、道元禅師の仏性のお話を、本当に、ほんっっの少し書きましたが、今回はユングについて調べてみました。

またウィキペディアに聞いてみると、

カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875年7月26日―1961年6月6日)は、スイスの精神科医・心理学者。深層心理について研究、分析心理学(ユング心理学)を創始した。

と、あります。

道元禅師は1200年に生まれていますから、ユングさんは道元禅師の約700年後に生まれた方ということになります。日本では、河合隼雄さん(京都大学名誉教授・元文化庁長官)が日本人として初めてユング派分析家の資格を取得し、日本にユング心理学を普及させたそうです。AADD12E3-F1D9-424F-A3BF-6CA9A7ABAE70

ということで、こんな本を読んでみました。

ウィキペディアによると、

精神科医であったユングは、当時の精神医学ではほとんど治癒できなかった各種の精神疾患に対する療法の確立を目指し、心理理論を模索していた。フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したユングはフロイトに接近し、一時期は蜜月状態(1906年 – 1913年)となるが、徐々に方向性の違いから距離を置くようになる。

と、あります。

フロイトとユングが研究していたのが、「無意識」です。「無意識」というのは、自分で意識できない意識を言います。この概念を最初に発見したのがフロイトです。ユングがフロイトの『夢判断』という書物を読んで感激し、フロイトを訪ねたことが両者の出会いとなりますが、後年、フロイトから離れ、独自の「分析心理学(ユング心理学)」を創始します。

では、ユングとフロイトの一番の違いは何でしょうか?学問上の理論の違いなどは、もちろん私は解説できませんので、私の勝手な解釈を書きます。それは、『「無意識」の範囲』です。

フロイトは、幼少期の体験やコンプレックス、受け入れがたい出来事が起きた時の心の傷などが、自分で自覚できない無意識の領域に押し込められている、とし、その抑圧されたものを意識化することによって、身体的な症状を治療しうる、と考えました。

これに対してユングは、フロイトの理論ではどうしても理解できない患者に接するうちに、フロイトの捉える無意識のさらに深層に、人類一般に共通の無意識がある、と考えました。これを「集合的無意識」といいます。

「潜在意識」、有名な言葉ですから、みなさんご存知だと思いますが、今、自分が認識している世界の意識を「顕在意識」と呼び、自分で認識できない意識を「潜在意識」と呼びます。この「潜在意識」に段階があり、フロイトの考える無意識(潜在意識)よりも、ユングの考える無意識=集合的無意識(潜在意識)の方が深部にある、というイメージです。

ここで、ようやく仏教に戻ってきます。

「世の中のためって?4」で書いた通り、仏教は、宗教だけでなく「仏教哲学」というものがあり、それは、経典を宗教書としてではなく、哲学書として読むものです。

というのは?

仏教は、潜在意識の段階のことを述べているんです。

ということで、この本を読んでみました。B284745A-9F21-441C-BB5C-290299A89313

難解―――!

続く・・・

世の中のためって?7

仏性、聞いたこともない、という方がほとんどだと思います。もちろん私もまったく知りませんでした。ウィキペディアによると、

仏性(ぶっしょう、梵: Buddha-dhātu)とは、衆生が持つ仏としての本質、仏になるための原因のこと。主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である。覚性(かくしょう)とも訳される。仏教では、この仏性を開発(かいほつ)し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。

わかりませんね~💦

一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という言葉があるのですが、「ブリタニカ国際大百科辞典の解説」によると、

生きとし生けるものは,すべて仏陀になる可能性 (仏性) をもっており,すべて悟りうるという仏教の思想。諸説もあって,なかには仏性をもたないものもありうるとする説 (法相宗) ,草木などの精神性をもたないものにまで仏性があるとする説 (天台宗) ,精神性をもたないものは仏性をもたないとする説 (華厳宗) などがある。大乗仏教の『涅槃経』にみえる句。

と、あります。要するに、「一切の衆生に、ことごとく仏性あり=すべて生あるものは、ことごとく仏となる可能性を有している。」ということのようです。また一般的には、「仏のように情け深い性質。慈悲深い生まれつき。」と解釈していたりします。

この仏性論、4世紀くらいにできた涅槃経というお経の中に出てくるんですが、仏教の革命的な考え方だったそうです。仏はどこにいるか→お墓でもない、お寺でもない、自分の心の中にいる、という考え方なんだそうです。

でも、この思想が生まれて700年後の道元禅師は、これに異を唱えます。まず「悉有仏性」をどう解釈しているか。

ここからは村山先生に教わった内容です。

「悉有(しつう)」という世界がある。それは、「ことごとくある。いつでもどこにでもあるもの。」言葉を変えると、「宇宙中充満しているものがある」という世界。で、その充満しているものこそが「仏性」である、と。

「仏性」ということは、「仏の性質」とも読めます。仏の性質、ということは、当然、善意しかないですよね。だから、「この宇宙は善意で満ち溢れている。あらゆるものを幸せにしようという心しかない。」ということになります。

次に「一切衆生」。

道元禅師は、これを一切(いっさい)とは読みません。一切れ(ひときれ)と読みました。その一切れを、衆生という。

だから「一切衆生悉有仏性」とは

宇宙に善意が満ち満ちている。その一切れを取ったものが、人間の心なんだ、

ということになるそうです。

この道元禅師の解釈を、村山先生は絶賛されていました。

NHKの「100分で名著」という番組のホームページの、名著59に、道元「正法眼蔵」の回があります。興味がある方は、探してみてくださいね。

蛇足ですが、その第4回「全ての行為が修行である」の中に、

普通は悟りを得るための手段として修行をすると考えられているが、道元はそうは考えない。修行そのものの中に悟りがあり、悟りの中に修行があるとみるのである。この立場に立てば、行(歩き)・住(止まり)・坐(坐り)・臥(臥す)といった生活の一挙手一投足が修行となり、その只中にこそ悟りがあると道元はいう。

と書いてあります。お釈迦様が、苦行ではさとりはひらけない、と仰ったことにつながるなぁと思いました。

続く!

世の中のためって?6

お釈迦様が生まれたのは、約2500年前。

それから現在まで、たくさんの人が仏教を学び、さとりを開こうと努力し、それを文章に残してくださいました。いろんな方が、それぞれの解釈で経典や文章を書かれてますから、ものすごい数の経典・文章があります。そのすべてが、ありがたいお話なんだろうと思いますし、村山先生も、いろんな経典の解説をしてくださいました。

本当は、村山先生の解説を多くの人に知っていただきたいと思いますが、公の場にそのまま書いてしまうわけにはいきません。なので、村山先生の解説を引用しながら、私の感想を書いていこうと思います。

前にも書きましたが、私が師匠の仏教塾に通ったのは、ほんの1年ほど。あとは先生がDVDでお話されているのを見ただけ。その少ない中で、最も私が「なるほどー!」と思ったお話を書こうと思います。

それは曹洞宗の開祖、道元禅師の「正法眼蔵」という仏教思想書の中の、「仏性の巻」です。

この「正法眼蔵」、難しいので有名なんですよ。全部で87巻あるのですが、その中でも最も難解なのが「仏性の巻」と言われています。それを私が書こうとしている・・・。めちゃくちゃ緊張します。手が震える思いですが、えーい、書いてしまえー!

道元禅師は鎌倉時代の人です。1200年にお生まれになりました。お釈迦様の教えが始まった頃から1000年以上経って生まれた、ということになります。この1000年以上の間に仏教も進化を遂げ、様々な素晴らしい教えが出ました。が、そこを全部すっ飛ばして、いきなり道元禅師の話にいきます。

まず、ユング、という人のことは、みなさんご存知だと思います。19世紀最大の天才と言われる心理学者ですね。

仏教と何の関係があるのかって?

実は、このユング心理学と道元禅師の仏性論は、同じことを述べているのだそうです。

続く!

世の中のためって?5

さて。『さとり』を開く。言葉としては、ほとんどの方がご存知ですよね。

では、『さとり』とは?

「ブッダの説法の根本は、その悟りの体験を言語化して伝え、人々をその境地に導くことにあったとされる。この悟りに到達することが、後代に至るまで仏教の根本目的であるとされる。」

ウィキペディアから引っ張ってみました。おー、なるほどー、わかったよ!という方は、たぶんいらっしゃらないと思います。

まずだいたい、『さとり』とは何かって、さとった人にしかわからないですよねー

で、仏陀(=さとりの境地に達した者)は、この世でお釈迦様ただひとりなわけです。

残念!終了!・・・というわけにはいかないので、まずはお釈迦様がさとりを開かれた時の様子を書いてみます。

「シッダールタは王族としての安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常や苦を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家した。」

これもウィキペディアからお借りしましたが、そうです、お釈迦様は王子様だったんですよ。なのに、その地位を投げ出して、6年もの間、苦行をされたそうです。さとりを開くために。すごいですよね。もうこの段階で、真似できません😔

で、苦行って、ウィキペディアによれば、

呼吸をしばらく止める修行

太陽の直射日光を浴びる修行

座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れたり、片足立ちをするなどの激しい肉体運動

減食によって食欲を抑制する断食修行  など。

と書いてあるんです。など、ですよ。他にどんな苦しい修行をされたんでしょうね💦  この苦行をすることでお釈迦様は『さとり』を開かれたんでしょうか。

いいえ、お釈迦様は、苦行では『さとり』を開けない、ということを悟られたんです。

「えーー!滝行とか、今でもあるけど、それでは悟れないんだ!」(私の心の叫び)

結構ショックですよね。でも、本当にそうなんです。村山先生も、「滝に打たれるぐらいなら、会社で人間関係に悩んだり、嫁姑バトルをしてるほうがよっぽど修行になる」と仰ってました。

ちょっと修行が身近に感じられませんか??

話を戻して。では、お釈迦様はどうされたんだろう・・・と思いますよね。

お釈迦様は、断食修行で生死の境をさまよい、川に流されてしまったそうです。そして、川を流れるお釈迦様を、スジャータという村娘が助けて、お釈迦様に乳粥を食べさせて蘇生させたそうです。

スジャータさん、あのスジャータは、ここから命名されたそうですよ。余談ですね。

それで生き返ったお釈迦様は、菩提樹のもとで瞑想し、『さとり』を開かれたそうです。

続く!

世の中のためって?4

仏教と心理学、難しそうですよね。

正直、うまく説明できる自信はまったくありません。というか、ほとんど勉強できてません。私が師匠の仏教塾に通ったのは、ほんの1年くらい・・・。それでも、目からウロコがどれだけ落ちたことか!

この状態で仏教を書こうなんて、なんと無謀な!と、恐れおののいていますが、あえて無知な私のまま、その驚きと感動、私が師匠の教えをどう受け取ったか、という視点で書こうと思います。仏教と心理学に詳しい方からしたら噴飯物だと思いますが、そこはご容赦を💦

まず、仏教というと、えっ、お葬式でしょ?というイメージですよね。私はずっと「亡くなった方をお経であの世へ送るお仕事」と思っていました。今、日本で仏教といえば、大半の方は「お葬式や法事でお世話になる」というイメージしかないと思います。

ところが。違うんですね〜

まず、仏教はインドで生まれたものです。お釈迦様が開祖と言われています。お釈迦様は、釈迦族の王様のご子息でした。お名前は、ゴータマ・シッダールタ。聞いたことありませんか?仏陀(ブッダ)というのは「さとりの境地に達した者」という意味で、仏陀はゴータマ・シッダールタさんただ一人。「お釈迦様」と呼ばれるのは、ゴータマ・シッダールタさんが釈迦族の王子様だったからだそうです。

えー、お釈迦様がどうして『さとり』を開かれたのか、とか、仏教の歴史、などはすっ飛ばします。ご興味のある方は、ぜひ一緒に勉強しましょう♪

で、その仏教。お釈迦様は、ご自身が『さとり』をひらかれたことを、弟子たちに説いています。お釈迦様がお亡くなりになった後、弟子たちがお釈迦様の教えを世の中に伝えようとしたことが宗教になっていったようです。それがお経の中に書いてあります。例えば、有名な「般若心経」の中に「舎利子」という言葉が出てきますが、これ、人の名前なんですよ。お釈迦様が、弟子である舎利子さんに教えを説いている、という形になっています。

要するに、「信仰」ではなく、「お釈迦様の教えを実践して、『さとり』を開く道」を説いているんです。

ということは、仏教は亡くなった方のためにあるものではなくて、生きている人のための教えなんですね。いや、生死も超えている、と言えるかもしれません。

日本では一般的に、仏教といえば「宗教」と捉えられていますが、学問としての仏教、「仏教哲学」は、今、ドイツが最も進んでいるそうです。ですから、日本からドイツまで仏教を学びに行かれるお坊さんもいらっしゃるそうですよ。私はそんなことはまったく知らなかったので、本当に驚きました。

で、私の師匠、村山先生は、この仏教哲学を教えてくださったんです。

 

力尽きました~💦 続く!

 

世の中のためって?3

次に。私がストローの使用をやめたことに、共感してくれる人が増えてきたとします。

さて、これをどうとらえますか?

「みんなが私に影響されてストローをやめてくれたわ!」

なぁんて思いがちじゃないでしょうか。はい、これ、ブブー。ダメなんですね〜

我らが師匠は、「やってやった、というのは絶対ダメだ」とおっしゃいます。

確かに、私の行動をみて、それに共感して一緒にストローをやめてくれたら、それは『私という外気』の影響でしょう。

でも、ここで気をつけないといけないことがあります。

私がストローの使用をやめたことに共感して一緒にストローを使うのをやめてくれた方、仮にAちゃんとします。

Aちゃんがストローを使うことをやめたのは、Aちゃん自身が「自分もやってみよう」と、自分を変化させたからです。

『私がストローを使うのをやめた、という外気』を受けても、変わらない人はたくさんいます。

一緒に始める、というのは、その本人、Aちゃんの内気が変化したからです。

はい、社会運勢学を学んでいる方はご存知の通り、「いつも内気が先」なんです。

どんなことも、自分の決意から始まります。

人から影響されて始めた、と思いがちですが、それは違います。自分がやろうと思ったから始められるんです。

じゃあ、最初にストローを使うのをやめた私は、どう考えればいいのか。

「私がAちゃんに影響を与えた」のではなくて、「私はAちゃんが決意するきっかけにならせていただいた」んです。一方的に私が影響を「与えた」のではなくて、Aちゃんがストローをやめてくれたことで「Aちゃんが決意するきっかけになるような自分」になれた、ということを「教えていただいた」というわけです。

そして、前回も書いた通り、Aちゃんが一緒に始めてくれたおかげで、私自身も「もっと減らしてみよう」と思うかもしれないし、「もっと継続させよう!」と思うかもしれない。私自身の変化につながっていくんですね。

こうして内気と外気が影響し合う状態になっていきます。

ということは。自分も変化しないと、この輪はまわらない、ということです。

もちろん、周りの人のために活動すること、人のために少しでも役に立ちたい、ということは、とても大切で素晴らしいことです。

ただ、その先があるということ。

そこで内気と外気の輪を途切れさせないようにするために、自分の受け取り方に注意したい、ということなんです。

では、なぜ「やってやった」はダメなのか。

それと「世の中のため」とどう繋がるのか。

それは、仏教と心理学に答えがあります。

 

またまた続く!

世の中のためって?2

私一人がストローを使わなくなったとします。

「ねーねー、環境のためにストロー使うのやめた方がいいよ!」言いたくなりますよね〜。あら?ならない?私が六白だからかしら(^-^;

人から強制されて、気持ちよくやってくれる人はあまりいません。そうじゃないですか?

じゃあどうしたらいいか。

「あの人がやってるなら、私もやってみようかな?と思われるような自分」になるしかないんです。

やっぱり、人から信頼されるような自分にならなければ、そんな風に思ってもらえないですもんね。

ずっと続けていたら、「あれ?ストロー使わないの?」と興味を持ってくれる人が出てくるかもしれません。「私もやってみよう!」と、言ってくれるかもしれません。そうしたら、私の行動が他の人に影響を与えたわけですね。嬉しいですよね〜

でも。これ、私が一方的に相手に影響を与えたわけではないんです。

どういうことかというと?

「私もやってみよう」と言ってくれる人がいるおかげで、私自身も「もっと減らしてみよう」と思うかもしれないし、「よし、これをもっと継続させよう!」と思うかもしれない。一緒にやってくれる仲間ができたら、続けやすいですよね。

やっぱり内気と外気は影響し合うんです。

そうやって仲間がどんどん増えていったら、影響力もどんどん大きくなっていくわけです。蟻の一穴岩をも崩す。

私一人の小さな変化が、世の中を動かす大きな力になる可能性を秘めている、ということです。

まだまだ続く!

世の中のためって? 1

世の中を良くする、世界のすべての人の幸せのため

うーん、そんなの私には無理~

っとお考えの方は多いと思います。そりゃあそうですよね。

自分のことは投げ打って世の中の為の活動を!とか、そういうことを連想しますよね。

そりゃ、無理ですよ~。私だって無理です💦

えっ、だってブログにそう書いてたじゃん??って?

まぁ、そう書いてました。

でも、「世の中のため」って、そういうことではないんです。

では、世の中のためって?

ものすごく簡単に言うと、「自分を整えること。」「自分」を整えることが、世の中のためになるんです。

…わからないですよね。

この、自分を整える → 世の中のためになる の間を説明するのがものすごく難しいんです。

まず、第一段階から。

気学を学ばれている方ならご存知の通り、「気」には、「外気」と「内気」があります。内気は常に内側、外気は内気を含んだ外側。例えば私を外気だとすると、内気は膵臓とか肝臓とか心臓とか脳とか、ということになります。では今度、心臓を外気としたとしましょう。そうすると内気は、右心室、左心室、血管、血液などなど、そのもっと内気は、細胞、そのもっと内側は…と、どんどんミクロになっていきますね。

では逆に、今度はマクロで考えてみましょう。私が内気だとすると、外気は、例えば江東区。では江東区を内気にすると、外気は東京都。どんどん大きくしていったら、外気は宇宙、ということになりますね。

何が言いたいのか。

常に内気と外気は影響しあってるんです。

内気である内臓が病気になったら、もちろん外気である私に影響が出ますよね。では、私が内気だとしたら、私がバリバリ働いてすごくたくさんの税金を納めたとしたら、外気である江東区に多少なりとも影響がありますよね。刑務所から脱走した犯人、個人ですけど、地域にすごく影響与えてますよね。

うーん、わかりにくいかな。

例えば、ストロー。

今、世界的にストローをやめようとか、他の素材に変えようという動きがありますね。

日本国民が全員、毎日一本ストローを使っているとします。

たった一人が、「私、金輪際ストローは使わないわ!」と決意したとします。一週間で7本ですね。

でも、「まったくストローを使わないのは難しいから、週に一日だけ使わない日を作ろう」という人が10人いたとします。10本ですよね。

私一人がほんのちょっと変えたって、何にも変わらない…というのは間違っている、ということです。

もちろん、大きな決意は素晴らしいけど、ほんのちょっとだけ変えてみる、ということも大事なんですよ。

内気が変われば、必ず外気も影響を受けるんです。

続く!